ロマンチックラブに悩まされる婚活

こんにちは!

ヨコハマのIT企業が運営する結婚相談所 8bit婚活エージェンシーのハチですヾ(o´∀`o)ノ

 

婚活サービスでも日常的な出会いでも、いい人に巡り会えない出会っても交際に至らない長続きしない、と婚活が上手くいかず悩んでいる方がたくさんいます。

理想の相手と現実的に出会う相手とは違うことが多く、理想と現実のギャップに幻滅し、現実を受け入れられないで悩んでいるのです。

理想と現実がこんなにも違いがあり、その違いが婚活を苦しいものへと変えていっているのだとしたら、どうして婚活でその理想を作ってしまうのでしょうか。

 

今回は、結婚や恋愛の理想を作り上げている”ロマンチックラブ”について、「恋愛制度、束縛の2500年史」という文献を元に考えていきたいと思います。

 

婚活で恋愛したい

昭和の時代にはお見合い結婚が多かったのですが、お見合い結婚では多くの夫婦が夫婦生活をしていくなかで愛情が生まれ、お互いに慕っていくという形でしたが、お見合い結婚はお見合い時に初めて会うということが当たり前で、お互いを知っていくのは夫婦となってから生活を送っていく中で確かめていくということがありました。

当時の夫婦は(というより妻側は)今よりずっと相手への要求が少なく相手を受け入れるということが自然に行えたから、そのお互いの感情の確認は相手を理解しながら確認していくことができたからなのかもしれません。

 

現代では、ほとんどの人は恋愛してから結婚するものだと考えるようになり、感情が無い結婚はすることがないでしょう。

恋愛しない結婚はどちらかが感情を偽って相手を騙す行為と同じと考えることができ、結婚詐欺と間違われてしまうか、それに近いものなのかもしれません。

それほどお互いの感情を抜きにして現代の結婚は成り立たなく、結婚してから愛情が生まれていくことも、相手を受け入れながら感情を確認していくこともできずに、合わないようであれば結婚生活を終わらせるという選択を選んでいきます。

 

そして婚活での理想の結婚は”大好きな人と恋愛して結婚すること”と多くの人が考えるのですが、婚活においてはその考え方にこだわっている人ほどその考えに縛られ婚活が上手くいかない傾向が多くあります。

好きになれるかなれないか、もっと言えば大好きにならないと結婚することはないので、自分の感情が発展しなさそうな人は最初から対象にならないという考えをもっています。

婚活で出会いの機会を増やしても好きになれなさそうな人は前に進めることも考えず、また合理的な考えのもと無駄な時間を使わないように条件で対象を絞ったり、一回の出会いで早々に見切りをつけて精神的に負担を感じないようなコントロールを行っていきます。

 

余談ですが、結婚相談所サービスを知らない人は、今でも恋愛感情が無いまま結婚をさせられるサービスと誤解していることが多いのですが、感情の無い結婚ができるほど現代の男女は相手を受け入れられる余裕がありません。

お互いに恋愛感情が芽生え無い限り、その先の交際に進みませんしプロポーズすることもありません。

 

恋愛はロマンチックラブが主体となり、恋愛して結婚するということもロマンチックラブの考え方”ロマンチックイデオロギー”が一つのバイアスとなって結婚の定義となり、ロマンチックイデオロギーが現代の日本人の結婚観となりました。

そして今、婚活を苦労させるものもロマンチックイデオロギーであり、それが恋愛や結婚を束縛するようになりロマンチックイデオロギーの硬質化が起きていると言えるのです。

 

なぜ、ロマンチックラブが無いと結婚はできなくなってしまったのでしょうか。

そしてロマンチックラブというのは本来どんな意味をもっているのでしょうか。

よくわからないまま、大好きな人と恋愛して結婚しなくてはいけない、と言う思い込みが生まれ、それが婚活では理想となり、相手への条件となり、叶えられないのであれば結婚さえもしない、というように結婚に難しさを感じるようになったのもロマンチックラブが原因なのです。

ロマンチックラブは現実か理想か幻想かを考えないと、理想はそのままに一向に現実を受け入れない恋愛を求め続けていくと言うことが起きています。

 

ロマンチックイデオロギーとは

ここからロマンチックラブとはなんなのか、参考文献の「恋愛制度、束縛の2500年史 古代ギリシャ・ローマから現代日本まで (光文社新書)」をまとめていき、ロマンチックラブに見られるロマンチックイデオロギーとはどのようなものかを説明していきたいと思います。

 

ロマンチックラブの元となるものは、中世宮廷恋愛をモデルとした”騎士道恋愛”でした。

これは、国に仕える騎士が国の王女のために自ら身を捧げ、愛する人のために死ぬという、まさにロマンチックなストーリーで想像力に溢れ、現実離れしている冒険活劇とも言われます。

目上の人に恋心を抱き、決して叶わぬ恋愛をすることでプラトニックで純粋な愛を伝えるのですが、叶わぬ恋愛なのでハッピーエンドにはならずに悲劇的な終わり方をします。

この騎士道恋愛がイギリスではシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」という物語に生まれ変わるのですが、「ロミオとジュリエット」も最後は悲劇的に二人の愛は叶いませんでしたが、叶わなかったからこそ愛することは生命をかけてこそ行うものだという考え方が生まれ、それが大衆にうけ世界観を作りヨーロッパ全土に広がっていきました。

 

中世以前は封建社会として集団主義的に周りの価値観に従っていれば良かったのですが、そこから革命が起き自由を得ることで”本当の自分とはなんなのか”と考え、自分を解放し自分に従って生きていくという個人主義が生まれていきました。

その個人主義の中で、個人の人生の中での一大イベントが恋愛だったのです。

 

個人主義の恋愛を、フランスのルソーが「私」という感性を重要とし、ドイツのゲーテが「ロマンとは理性よりも感性に重きを置き、個人の世界の表現をする」という定義づけをしました。

そして、『レミゼラブル』の作者であるフランスのユーゴーが「愛とは全世界がたった一人の存在に収斂し(縮まり)、一人の存在が神の領域まで拡張する」と定義しました。

このユーゴーの愛の定義によって、神の神聖な領域と世俗の人間の恋愛が完全に混同してしまい、

・僕の世界には君しかいない
・君がいない世界なんて考えられない
・君は神のように美しい、いや神そのものだ
・君が僕の全世界だ、君がいなくなれば僕は死ぬ

というような幻想めいた恋愛が生まれてきました。

 

ロマンチックラブとは、叶わぬ恋愛から相手を神化し幻想の中に相手を生かすことで、恋愛を何よりも素晴らしく、何よりも変えがたいものとして、過剰なまでに(神を超えるほど)進化させていった思想ということになります。

物語だけで収まりきらず、日常的にロマンチックラブが人々の恋愛にまで影響を及ぼしていくことになりますが、その思想は思いを募る相手に熱量こそは伝われども、相手と将来的に関係を構築していくことを約束するには不十分で信頼性に欠けるものでした。

もし将来的に自分の子供が結婚相手を連れてきたとして、相手がロマンチックな言葉ばかり発しているようであれば心配でたまらないですよね。

 

「愛」という絶対領域

幻想的なロマンチックラブはロマンチックイデオロギーから作られていきましたが、ロマンチックイデオロギーの性質がどのようなものかを解析してみると、より幻想的な思想が見えてきます。

フランスのユーゴーの言葉の中では、女性を光や星といった届かない距離感の中で輝いているものとして表現されています。

抽象的ではあるものの、全ての人の上に輝いているものとして絶対的存在をイメージさせ、ある種の神秘的な神の存在に祭り上げられ一つの謎として扱われます。

そしてそれはロマンチックラブの中では星や太陽に例えられるようになるのですが、恋人と二人で空を見上げ「星が綺麗だね、でも君の方が綺麗だよ」というセリフもここから生まれています。

 

ロマンチックイデオロギーの中に見られる「愛」というものは、美しく輝き誰もがその存在を知っていて、神秘的なものであり絶対的な存在であるが、謎に包まれていて結局誰もわからないのです。

よくわからないからこそ「愛」とは宗教化もするし、人々はそこに救済を見ることもできるので、それはやはり幻想の中にあるものなのでしょう。

 

「私」という個人主義

ロマンチックイデオロギーを作っているのは、「愛」であり、“他のみんながそうしているからそうする”のではなく、私は私だけのロマンチックラブにより誰よりも「あなた」を愛するのは「私」であるという個人主義が基本となりました。

 

19世紀になるとヨーロッパで封建社会が崩れ、王や貴族に従う時代が終わり、自分の人生は自分で考え切り開いていくという時代がやってきました。

各地で戦争や革命が起き混乱が起きている中、社会が与える現実から離れ意識を背けていくように、自分の中の幻想や神秘こそ重要とし、「私」という個人を大切にすることで“私たちの真実は私たちが自分の中に持ち歩いている”と考え、社会に対する庶民のシュプレヒコールが起きていきました。

 

社会の混乱から「私」という個人の自我を持つことで苦しい現実から逃れる術を見つけていったのでしょう。

私の思考、私の愛、私の幻想、私のヴィジョン、というように「私」の絶対化が起き、ロマンチックイデオロギーにも強く影響を与えるのです。

そして、プラトンのイデア論

本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚する対象や世界とはあくまでイデアの《似像》にすぎない

にも見られる、「プラトニックラブ」の語源となるプラトニズムが男女の恋愛や結婚観にも浸透していったのです。

 

ヨーロッパで起きた「私」という個人主義の価値観は海を渡って日本までやってきたのですが、同調圧力の強い日本人には縁遠く空気を読むコミュニケーションスタイルとは正反対であり日本人は受け入れることができませんでした。

世間から隔離された二人だけの世界というロマンチックラブは、当時の日本人の恋愛観や結婚観に影響を与えることができなかったのです。

 

崇高と無限〜永遠の彼方に〜

ロマンチックラブを作り上げるロマンチックイデオロギーですが、日本人はイデオロギーというものを持ち合わせていませんでした。

イデオロギーを直訳すると思想観念となりますが、古くから日常的に使われている言葉ではありませんし、どのような時に使われる言葉かをすぐに言える人も多くはないのでしょうか。

 

ロマン主義的な恋愛観として、ロマンチックイデオロギーを主とし特徴的とするものは「崇高」「無限」「永遠」の世界観です。

実際に目に見えない概念であり、また客観視された世界で、「個人主義」と同じく日本人には持ち合わせていない感覚でした。

 

例えば大自然の中に自分がいるとすると、日本人は自然と自分との間には何もなく自然と直接的につながっていくものと考えるのですが、ヨーロッパでは自然と自分との間に「無限」「真実」「善」「美しさ」などの概念を挟みます。

自然を見て美しいと考えるのは近代的な考えで、古くからの考えからは美しいと客観視せず「ただそこに自分がいる」という感覚だけでした。

英語で自然を見て「beautiful」と自然そのものを表現できるのは概念が存在しているからで、日本語で自然の美しさを表現する言葉は何かに例えないと表現できませんでした。

それは「花鳥風月」に見られるように人の心情や様子を表す言葉に多く見られ、概念としての美しさや無限を感じるという”自然と自分との間に存在するもの”という考え方がなかったのです。

 

この概念が恋愛と結びつき、感性の世界を作り上げ、遂行なるものとしてイメージ化されロマンチックとなるのですが、日本人にはさっぱり理解ができない概念(イデオロギー)となり、現代でもその概念は人によってバラバラな考え方となっています。

 

日本の社会、恋愛観や結婚観の中で、ロマンチックというものの概念が説明しきれず、言葉だけが独り歩きしていった中で、ロマンチックな恋愛を求めるのに相手と上手く価値観をあわせられないのは、概念のところが考えられてこなかったからなのでしょう。

 

もはや世紀病

愛を語る上で欠かせなかったはずだったロマンチックラブですが、それを作り出したロマンチックイデオロギー(ロマン主義)は、その非現実的な性質から世紀病と言われるようになりました。

 

世紀病とは、激しい理想主義、現実が絶えざる幻滅の世界、そしてロマン主義者が愛鬱になるものでした。

 

世紀病とは 引用:コトバンク

一つの時代・社会の爛熟らんじゅく期から衰退期にあって、懐疑的な思潮のもとに生まれる反現実的・退廃的な心的状態。フランスを中心とするヨーロッパでは、18世紀末の初期ロマン主義、19世紀末のデカダンスなどにみられる。

 

世紀病とは健康上の病いではなく精神的な病いとして、心の病いと言われるようになり、これまでの医学で完治してきた病いとは全く別のものでした。

 

自分の理想を立ち上げたけど、理想と現実の違いに幻滅の連続が起き、現実世界では実現が難しいことが多い事を知り、それによりメランコリー(憂鬱)になってしまいます。

幻滅する事から目を逸らし、自己防衛や自己正当化をしてしまうのですが、その非現実的なものから崇高なものとして人間の尊厳を見るようにまでなったのです。

現実の世界では思い通りに行かないから、本当の美しさとは、本当の真実とは、「人間が手の届かないところ」として彼方に設定し、それを生きる価値とまでしていったのです。

 

恋愛の絶対の価値として、「本当の美しさ」「本当の真実」を”手が届かない”からこそ追い求めることだとし、”真実の愛”として置き換えメランコリー(憂鬱)に陥ることを恋愛のヴィジョンとしていったのです。

 

ロマンチックラブとは永遠に手が届かないと薄々わかっているけど、その手が届かないところだからこそ真実だと、手が届かないことに対しての憂鬱さを積み重ねていくことなんですね。

 

ロマンチックイデオロギー

ここまでで、世紀病と言われるロマンチックイデオロギーが現代の社会に溶け込んでいったことは、その性質からして本当は人々の思想に良い影響を与えているわけではないのではないか、という考えさえも浮かんできてしまいます。

 

ロマン主義は「無限」「崇高」など意味不明なことを思想的に正当化していって人々に浸透させてきたのですが、さすがに現実社会と折り合いが悪くなっていくのですが、うまいことにブルジョワ社会(市民社会、資本社会など封建社会の対義)の中に取り入れられてしまいました。

結婚にはじまり、人間同士の恋愛という世俗の領域に、神聖さや永遠、崇高といった宗教的次元が取り入れられ、恋愛の宗教化が起きていったのです。

 

ここから主婦像ができあがり、女性とはおしとやかであり、家庭を守る聖母であり、夫を許し励まし、子を慈しみ、純血であり操を守り、生涯一人の男性を愛し続ける、とイメージづけられていきました。

もともとは世俗的な結婚システムだったものに、ジェンダーバイアスが加わり恋愛制度が浸透し、男はこうあるべき女はこうあるべきというものを作り上げていったのです。

 

このロマンチックイデオロギーが日本にも輸入され様々なものに加工生産されていきました。

それは現代の日本の結婚にも十分に機能していて、感情を束縛する制度として、ジェンダーバイアス、結婚制度、恋愛、彼氏彼女、出会い、片思いなど全てにロマンチックイデオロギーが浸透しているのです。

 

恋愛結婚がイデオロギー化する

もともとは封建社会の崩壊から、自分で結婚相手を見つけて自由に恋愛をするはずだったものが、ロマンチックイデオロギーで感情までを束縛するようになり硬質化していったのがロマンチックラブでありロマン主義ということがわかりました。

 

そして現在の結婚相手を見つける婚活にも大きな影響を与えていることがわかります。

 

ロマンチックイデオロギーからみる永遠や崇高という宗教的思想、手が届かないところに設定されている愛、大好きな人とロマンチックな恋愛をして永遠に愛を語りたい、そんな結婚生活を送りたい。

 

現代の日本人に見られる無宗教文化は、永遠や崇高というものに魅力を感じ、神聖なるものを探し自分の進むべき道を見出そうとしていこうとしています。

それがメランコリー(憂鬱)な世界に知らず知らずに入り込んでしまっているのではないでしょうか。

現実と非現実という概念を考えることなく、ロマンチックラブへの憧れだけを上手く取り入れようとする多文化思考の日本人だからこそ起きている現象なのでしょう。

 

しかしイデオロギー化してしまっていることで、その恋愛に束縛されているのが現在の婚活でもあるのです。

理想を掲げて理想と現実とのギャップの連続に幻滅してしまい、憂鬱になり婚活をやめてしまうということが、今の婚活でもたくさん起こっています。

婚活疲れという言葉はまさにその世紀病の婚活バージョンなのでしょう。

 

結婚生活は他人と生活をしてともに年を重ねていき、相手の価値観を受け入れ現実世界と折り合いをつけていくことです。

ロマンチックラブから抜け出し現実社会を受け入れることをしていかないといつまでも憂鬱な気持ちを抱え続けていくことでしょう。

どこかでロマンチックイデオロギーから抜け出して現実的に相手を見極めて人生を進んでいくことを考えていく、これが婚活において最も大切なことなのかもしれません。

 

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